帰省

 唐突だけれど、帰省した。
 目的についても、そこでの対話についても、起こった事柄についても、ちょっと置いておく。今日は気づいたことのメモを。

 最近の移動は、パソコンかノートか書きかけの文章のプリントアウトを広げて、作業をする習慣になっている。もしくは仮眠をとるか。そして、今回もそうだった。

 大船の手前あたりだっただろうか。ふと、車窓の風景が気になった。自分が育った町に「帰りたい」と思うことは、いつものことだ。おそらく、この半年間のことで、疲弊していたこともあるだろう。気づいたら、つつーっと涙が出てきた。いつもの「帰りたい」という、現実逃避の、激しい感情の湧き起こった涙では、ない。

 大船から逗子あたりまで、車窓の風景を眺めてみた。
 「この風が好きだったんだな」と、ふと思う。…閉まっている窓から風を感じるわけでもないのに。
 「懐かしい空の色だな」と、ふと思う。…横須賀線に乗ってどこかに通ったわけでもないのに。

 ふたたび、日常に戻らなければならないときに考えたこと。それは、郷愁っていうものは、もう、そこには生活基盤もなく、そして今後もないであろうという自覚のなかで起こることなのではないか、と。つまりは、幻想、だ。

 あの静かな幻想は何だったのだろうか。たんなる現実逃避だったのだろうか。

 窓の外。
 そういえば、10代の頃、授業中に、窓の外を眺めていた時期があった。友人たちが退学していった後、残された教室で。6年間も過ごす時間のなかで、突然に「親友たち」がいなくなった教室は、とても〈残酷〉だったのだと思う。わたしにとって。いま思えば。…そこには「誰もいなかった」。

 じつは、あの頃のほうが、ずっと「大人」だったのではないか、と、気づかされた。それが、突然やってきた郷愁の意味だったのだろう、と。

 ほんの数日間を経て、また明日から日常に戻る。どうにもこうにもやりきれない、さまざまな事柄を抱えながら。しかし、10代の頃のことを思い起こせば、乗りきれるような気がするのだ。…そこには「誰もいない」。あの頃と同じような〈残酷さ〉が横たわっているのかもしれない。でも、「誰もいない」ことを心に留めておけば、いい。それで乗りきれるのであれば。おそらく、「仕事(=労働)」とは、そういうものなのだろう。


 〈残酷〉なものを、きちんと〈残酷さ〉として認識することの勇気。いま、わたしにはそれが必要なのかもしれない。




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