日常のなかの狂気

 栗原さんの「暴力」論がおもしろい。いずれ少し感想でも書こうと思う。 

 わたしたちは、しらずしらずのうちに奴隷の生を強要されている。生きのびさせられている。(…)さいしょはカネをかせぐためにはしかたがないと、しぶしぶやっていたのかもしれないが、まわりがみんなそうやっているのをみていると、それがあたりまえなんだ、そうしないのがおかしいことなんだとおもうようになってしまう。足なみをそろえてあるく兵隊みたいに。
(栗原康、2015、『現代暴力論:「あばれる力」を取り戻す』角川新書、pp. 137-138)

 ちょっとメモ的に書いておこうと思う。
 たかが労働。されど労働。
 この3月に辞めると決意していた非常勤の事務職の仕事。いまではとてもつまらないように思える理由で、今年度も続けることになった。もちろん、雇用継続が一年延長された、という前提つきで、なのだが。(そもそも雇用期限通りに終了すれば、わたしはそこにはいなかった。)

 半年を経て、「労働」について、あらためて考えさせられる。
 辞めなかったことを後悔してもはじまらないのだけれど。

 ここのところ、5階のベランダに設置されている喫煙所に行くのを、やめた。
 ある日、突発的な行動に出るような予感がしたからだった。そのベランダの柵(のようなもの)は、「避難用具」の箱が設置されているところに足をかければ、簡単に飛び越えることができる。孤立した状況であれば、ここで誰かに迷惑がかかろうが、自分には、知ったこっちゃない。・・・そんな「一線」は軽く、ほんのタイミングで超えることができるような気がしたのだ。そう。何人もの人たちがほかの場所で、あまりにも軽く超えて行ってしまったように。
 だから、地下の薄暗い駐車場で喫煙することにした。それが、わたしの「病識」だった。

 「今日一日を乗り越えること」を考える。まずはそこから始めることにした。
 そんなとき、あまりにタイミングよく、大学時代の「仲間」から連絡が入った。部活の「仲間」だ。事故を起こし、逃走してから、口を聞く機会もなかった、同級生に、26年ぶりに、会った。
 大学入学以降、一週間のほとんどの時間を一緒に過ごした。朝から晩まで。大喧嘩もした。ほかの同級生や、女子の先輩たちに仲裁に入られることもあるような、激しい喧嘩を、わたしたちはした。そして、何よりも、いつも最大の「ライバル」だった。
 わたしが去り、女子の団体戦が組めない、という危機があったことをきいた。「なんで、堀江がいいひんねん」。そう何度も思ったという。
 わたしにとっては、そんなこと、思ってもみなかったことだった。ちょっと考えればわかることなのに。
 ずっと、中退したことを後悔してきたが、また、つながりはじめる大事な関係。26年を経て、ようやく。

 今回、とどまることができたのは、きっと、こいつのおかげだと思う。わたしたちは、生き延びなければならない。




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新設サイト

 2015年7月31日に上梓した『レズビアンアイデンティティーズ』(洛北出版)の宣伝もかねて、あたらしいサイトを開設することにしました。

Yuri Horie's labo ⇒ここ

あまり活用できてはいませんが、ご報告までに…。


レズビアン・アイデンティティーズ

レズビアン・アイデンティティーズ



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帰省

 唐突だけれど、帰省した。
 目的についても、そこでの対話についても、起こった事柄についても、ちょっと置いておく。今日は気づいたことのメモを。

 最近の移動は、パソコンかノートか書きかけの文章のプリントアウトを広げて、作業をする習慣になっている。もしくは仮眠をとるか。そして、今回もそうだった。

 大船の手前あたりだっただろうか。ふと、車窓の風景が気になった。自分が育った町に「帰りたい」と思うことは、いつものことだ。おそらく、この半年間のことで、疲弊していたこともあるだろう。気づいたら、つつーっと涙が出てきた。いつもの「帰りたい」という、現実逃避の、激しい感情の湧き起こった涙では、ない。

 大船から逗子あたりまで、車窓の風景を眺めてみた。
 「この風が好きだったんだな」と、ふと思う。…閉まっている窓から風を感じるわけでもないのに。
 「懐かしい空の色だな」と、ふと思う。…横須賀線に乗ってどこかに通ったわけでもないのに。

 ふたたび、日常に戻らなければならないときに考えたこと。それは、郷愁っていうものは、もう、そこには生活基盤もなく、そして今後もないであろうという自覚のなかで起こることなのではないか、と。つまりは、幻想、だ。

 あの静かな幻想は何だったのだろうか。たんなる現実逃避だったのだろうか。

 窓の外。
 そういえば、10代の頃、授業中に、窓の外を眺めていた時期があった。友人たちが退学していった後、残された教室で。6年間も過ごす時間のなかで、突然に「親友たち」がいなくなった教室は、とても〈残酷〉だったのだと思う。わたしにとって。いま思えば。…そこには「誰もいなかった」。

 じつは、あの頃のほうが、ずっと「大人」だったのではないか、と、気づかされた。それが、突然やってきた郷愁の意味だったのだろう、と。

 ほんの数日間を経て、また明日から日常に戻る。どうにもこうにもやりきれない、さまざまな事柄を抱えながら。しかし、10代の頃のことを思い起こせば、乗りきれるような気がするのだ。…そこには「誰もいない」。あの頃と同じような〈残酷さ〉が横たわっているのかもしれない。でも、「誰もいない」ことを心に留めておけば、いい。それで乗りきれるのであれば。おそらく、「仕事(=労働)」とは、そういうものなのだろう。


 〈残酷〉なものを、きちんと〈残酷さ〉として認識することの勇気。いま、わたしにはそれが必要なのかもしれない。




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論文執筆

 これを書いているいまは、とっくに年が明けているのですが、2014年後半に公刊されたものをメモ的にアップしておきます。

「女たちの関係性を表象すること――レズビアンへのまなざしをめぐるノート」
 『ユリイカ』第46巻・第15号(2014年12月号/特集:百合文化の現在)、青土社、78-86頁。(2014年11月27日発行)。

→どなたがご紹介くださったのかわからないのだけれど、依頼が来たので、執筆。これまで触れてこなかった分野なので(・・・というよりも、正直に言ってしまうと「苦手」分野でもあったので)、かなり苦しみました。
 準備段階で、BL/ヤオイ関連の先行研究をかなり読んだことも勉強になりました。せっかくなので、もう少し進めていけたら、とも思っているところです。

[rakuten:book:17200249:detail]

「他者の死に向き合うこと――クィアすることをめぐって」
 上村静編『国家の論理といのちの倫理 ――現代社会の共同幻想と聖書の読み直し』新教出版社、90−100頁。(2014年11月30日発行)。

→『福音と世界』に掲載された拙論を大幅に修正。掲載時には紙幅の都合で割愛していた部分を盛り込みました。

「〈弔い〉をめぐる覚書 ――クィア神学からの一考察」
 女性・戦争・人権」学会『女性・戦争・人権』第13号、86-103頁(2014年12月15日発行)。

編集委員会からの依頼論文。ここのところの課題である〈弔い〉について、神学の領域で執筆することに取り組んでみました。
 ともかく、英語圏にはすでに膨大にある「クィア神学」。それを日本において、どのように文脈化するのか。まだ、そちらの課題には手をつけることができていないのですが。




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論文執筆

 これを書いているいまは、とっくに年が明けているのですが、2014年後半に公刊されたものをメモ的にアップしておきます。

「女たちの関係性を表象すること――レズビアンへのまなざしをめぐるノート」
 『ユリイカ』第46巻・第15号(2014年12月号/特集:百合文化の現在)、青土社、78-86頁。(2014年11月27日発行)。

→どなたがご紹介くださったのかわからないのだけれど、依頼が来たので、執筆。これまで触れてこなかった分野なので(・・・というよりも、正直に言ってしまうと「苦手」分野でもあったので)、かなり苦しみました。
 準備段階で、BL/ヤオイ関連の先行研究をかなり読んだことも勉強になりました。せっかくなので、もう少し進めていけたら、とも思っているところです。

[rakuten:book:17200249:detail]

「他者の死に向き合うこと――クィアすることをめぐって」
 上村静編『国家の論理といのちの倫理 ――現代社会の共同幻想と聖書の読み直し』新教出版社、90−100頁。(2014年11月30日発行)。

→『福音と世界』に掲載された拙論を大幅に修正。掲載時には紙幅の都合で割愛していた部分を盛り込みました。

「〈弔い〉をめぐる覚書 ――クィア神学からの一考察」
 女性・戦争・人権」学会『女性・戦争・人権』第13号、86-103頁(2014年12月15日発行)。

編集委員会からの依頼論文。ここのところの課題である〈弔い〉について、神学の領域で執筆することに取り組んでみました。
 ともかく、英語圏にはすでに膨大にある「クィア神学」。それを日本において、どのように文脈化するのか。まだ、そちらの課題には手をつけることができていないのですが。




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論文執筆

 気づけば、一年ちょっと更新できていないのですが、この間、やってきたことをぼちぼちとアップしていこうと思います。


「〈弔い〉の営為にみる生死の諸相 ――非規範的な性/生をめぐって」
 花園大学人権教育研究センター『人権教育研究』第22号、127−146頁(2014年03月31日発行)。

→「非規範的」という表現が適切かどうか、留保を付けつつではありますが、いわゆるLGBTの(もしくは、正確には「同性愛者」の)「死」に直面する出来事、そして死者と向き合う〈弔い〉という出来事についてこれまで思考してきたことさらに執筆。
 ちなみに、花園大学は2013年度で、減ゴマ措置などにより、14年間続いた非常勤講師の職を終えました。

「宗教とフェミニズム ――キリスト教の中の性差別」
 大越愛子・倉橋耕平編『ジェンダーセクシュアリティ ――現代社会に育つまなざし』昭和堂、123−143頁。(2014年01月25日発行)。

→コンセプトは初学者向けの論文集。大越愛子さんが近畿大学を退官されるにあたっての企画に入れてもらいました。
 宗教、とりわけキリスト教におけるフェミニスト神学のエッセンスと同時に、そこから派生していったクィア神学についての紹介。執筆中に気づいたこととしては、さらなる課題として、やはり本格的に神学関係の議論を追う必要がある、ということ。遅々とした歩みではありますが、ある意味での「古巣」にも一部戻りたいと思ってます。


ジェンダーとセクシュアリティ―現代社会に育つまなざし

ジェンダーとセクシュアリティ―現代社会に育つまなざし


 

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論文執筆

やらなければならないことが目の前に山積みになっていると逃避したくなる、という悪い癖で、この一年に執筆したものをアップしておきます。
それぞれのテーマは、執筆中にあらたな課題もみつかりつつだったので、追々、追究していきたいと思っています。

「他者の〈死〉という出来事 ――クィアすることをめぐって」
 『福音と世界』新教出版社、2013年2月号、28-33頁(2013年01月20日発行)。

→特集:いのちの倫理。
 昨今のセクシュアル・マイノリティをめぐる自死予防の流れ(政策提言など)における、ある種の「違和感」のようなものを問題提起的に考察。しばらく考えている〈弔い〉についての中間報告的な執筆でもありました。

ジェンダーセクシュアリティ領域科目の課題と可能性 ――大学における『人権教育』の観点から」
 立命館大学生存学研究センター『生存学』第5号、113−127頁(2013年03月15日発行)。

→特集1:教育の境界、境界の教育。
 人権教育の流れを概観。その流れに、自分が担当している「ジェンダー論」関連の講義にて、受講生たちの近年の反応の傾向(「結婚願望」の増加、性の多様性を認めつつも同性愛者への差別意識の顕在化)を読み解きつつ、その背景を探ってみました。
 執筆中に気づいたのは、1970年代以降の高等教育機関における「人権教育」が一種の「バブル」状態を生み出していたのではないか、ということ。「バブル」崩壊後、人権関連科目の大幅削減、担当者の非常勤講師化についても今後、詳細にみていく必要があると思っています。必然的に「バブル」を担った方々への批判を伴うものとはなるかと思います。

「女がロックを生きるとき ――ハードロックバンドSHOW-YAフェミニスト的読解」
 花園大学人権教育研究センター『人権教育研究』第21号、159−186頁(2013年03月31日発行)。

→久々にまったく新しい分野に挑戦。教室で出会った学生(ロックギタリストの女子学生)との対話からはじまり、1980年代に「女のロックバンド」の草分け的存在として活躍し、いまも復活後、活躍し続けている、SHOW-YAについて分析を試みました。
 規範的な女性のライフコースに乗らないあり方や、ロックというスタイルにおける女性の位置、そこからみえる「女性のエンパワメント」というフェミニズムのテーゼとの重なり。…この論文に関しては、まだまだやりたいことが多くあるので、続編を構想中です。(裏コンセプト:ただのSHOW-YAファンです。で、その魅力を読み手にお伝えすべく、かつ、わたしがいかにSHOW-YAに力づけられてきたかを冷静に分析しつづけようかと思っています。)


 

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