あらたな〈希望〉に向けて


『群青』blog版を第II期として再開することにしました。

と言っても、ブログを引っ越したところで基本的にはコンセプトを大きく変更するわけでもなく、あたらしいことを目論んでいるわけでもありません。

キリスト教というとても小さな世界の、さらにその片隅で、自分の身に起きた出来事を「差別事件」として問題化したとき、思わぬ方向へとさまざまな事柄が動き始めました。
大まかに表現すれば、それらは“良くない方向”と“良い方向”があったと思っています。

ブログの引越をしたのは“良くない方向”へ向かっていくいくつかの事柄がきっかけでした。しかし、第II期として再開しようと思ったのは、その出来事をめぐる事柄をリセットしようと思ってのことではありません。

2010年6月、「差別事件」を引き起こした人たちの側は、当初、「差別」だとの認識を持っているとの見解を示していました。しかし、2往復ほどのメールのやりとりの後、あちらからの連絡は途絶えてしまいました。「差別者」側の人々が選択したことは、直接、問題化した人間と対話をすることではなく、自分たちが“話をすることができる”と判断した(仲間内だと認識している)、異性愛男性たちを中心とした地域の組織でした。

そして、そうこうするうちに「東日本大震災」という未曾有の出来事が起こりました。あれから情報を追いつつ、亡くなった人たち、いまも「行方不明」の人たち、避難所での生活を余儀なくされている人たちに、またまったく終息目処の立たない原発事故の問題についての思いをはせながら、わたしも日常を過ごすことになりました。もちろん、つねに、わたし自身の精一杯の想像力をもってしても、何も追いついていないのだという自覚をもたざるをえない現実を伝え聞きながら。

おそらく、震災が原因ではないのだとは思います。しかし、いつの間にか、出来事の「加害者」たちと「被害者」の立場は入れ替わっていく。
結局、直接的な応答がなんらないままに一年半余りが過ぎ、そして周囲の人々の記憶はさらにまた変容していく。

「加害者」たちは公の場では沈黙したまま「差別事件」については語ろうとしない。
しかし、実際にはとても「雄弁」です。

「なぜ、かれらは一生懸命頑張っているのに、その努力を認めようとしないのか。」
「なぜ、被災地のなかで精一杯生きている人たちにそれ以上の労苦を背負わそうとするのか。」

…そんな声が間接的に聞こえてきます。
2011年3月11日より半年以上も前に、起こされた出来事にもかかわらず。かれらから、直接的には何の応答もないままに、あの日があったにもかかわらず。
「被災地」というキーワードでほかの事柄を抹消していく力学が働くこと。かれらがやっている「努力」と表現されていることも、まったく伝えられないままに。何よりも、それらの“周辺”の声でさえも、本人に直接伝えられることはありませんでした。ただの一回も。

そして、「被害者」は、公の場で語ることができなくなりました。
けして本人には伝えられないかたちで、間接的に、「加害者」たちから誹謗中傷を受け、そして、二次被害、三次被害が増殖していく。
「やめてくれ」と、心のなかで叫んでみても、誰にも聞こえないわけです。

それでもなお、沈黙してなければならない状況が生み出されつづけていくこと。

かれらが、そうやって間接的に真綿で首を絞めるように発してきたメッセージは、
「お前は生きている価値などない」
ということでした。少なくとも、わたしにとっては、そうとしか聞こえなかった。

キリスト教の世界は、「レズビアン」という立場で生きようとする人間には過酷な世界なのだと思います。
そもそも異性愛主義という規範が、キリスト教の存立要因として存在している。そのなかで思考停止すれば、生きながらえていけるのかもしれない。
しかし、そこで日々繰り返される排除や差別の言動に、問いかけ、対話を求めようとすると、確実に抹消されていく力をもった世界なのだと思います。…抹消する側にはその自覚はないままに。

おそらく、この「差別事件」をめぐる“良い方向”を表現していくには、少し時間がかかりそうです。しかし、いまは漠然とした感覚のなかに、確実に“それ”はあります。
当初の出来事からこのような状況が、おかしいのだと気づかせてくれた人たちがいたこと、そして寄り添ってくれた人たちがいたこと。
あらためて、いまさらながらに、セクシュアル・マイノリティのサポート活動や人権活動をしていた人たちにSOSを出し、支えてもらっていくなかで、自分がいかに孤独であったのか、孤立していた/いるのか、いかに尋常ではない世界にどっぷりと浸かっていたのか、ということに気づかされる。
それは身体的に痛いことではあるのだけれど、限られた時間のなかで、何を大事にしたいのか、どこにエネルギーをさくべきなのか、を、あらためて考えるきっかけになりました。

今日(2月4日)は、そんなかれらかのじょらが、わたしの所属する地域で開始されている「事実確認会」の担当者会に申し入れをし、懇談会をもった日です。
そんな日であるからこそ、今日からあたらしいブログを再開しようと次第です。キリスト教の外にいる“仲間たち”への感謝、そしてそこでわたし自身が与えられた力と〈希望〉を忘れないように。

多少、抽象的な表現になってしまったかもしれませんが、現時点では対話が一方的に閉ざされたなか、そんな八方ふさがりな気持ちを抱えつつ、ふたたび、ぼちぼちと発信していこうと思っています。






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