筑豊訪問

Yu-u22012-02-26

日本基督教団 直方教会 公同礼拝
 日時: 2012年02月26日(日) 10:30−11:45

 昨年9月から半年振りに筑豊の直方(のおがた)教会に訪れた。
 この日の礼拝説教は、鈴木しもん牧師。詳細はご本人の許可を得ていないこともあり、ここに記すのは控えておくが(笑)、興味深かったのは「北九州ホームレス支援機構」の活動に従事するなかからみえる事柄をはさみつつ、そして聴衆を巻き込みつつのお話であったこと。そのなかに「生活満足度」のアンケートについてのお話があった。しもんさんの言葉は、つねに情況のなかで、独特の繋がれ方を醸し出す。メモをみると、もう数日後にはよく繋がりを思い出すことのできない(ごめんなさい)、がしかし、卓抜な表現に「ほ〜っ!」と思ったその感覚のみが思い出されるものがある。

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 そして、そこから波及して考えたこと。「あなたはいまの生活に満足していますか?」という問いかけは、そもそも、いま、その自分がどこにいるのか、誰と一緒にいるのか、によって大きく変動する。さまざま場を渡り歩きながら、いくつかの職をもって過ごしながら、またいろいろな人々と出会いながら、日常を送っていると、その場その場で、それに応答する感覚や言葉は大きく変動しうる。いってみれば、それは“当たり前”のことではある。
 普段、自己肯定感が低くとも、たとえば、直方教会の礼拝の場に座っている自分は、「満足度」は高い。それは久々の再会が嬉しかったり、人々が集まるその場の雰囲気がリラックスできる場所であったりするからだ。何パーセントかとたずねられれば、「350パーセント」とこたえたくもなる、何かがある。横から、教会員のKさんのおっちゃんには、「それ、言いすぎでしょ」と突っ込まれたわけだが、しかし、いってみれば、大袈裟な表現ではないと思えてしまうような瞬間がある。もちろん、そこでは自分は「余所者」であり、場をつくりだすための責任をもっていない、という立場であるから気楽にいられる、ということもあるのだが。

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 また、先日、セクシュアル・マイノリティ関連の一泊研修に出かけたのだが(このとき感じたことについてはいずれ書こうと思っているのだが)、このときにやってみた自己評価は普段検討もつかないほどに高かった。それは逆照射すれば、日常生活のなかで自己肯定できているのか、無意識のうちにできていないとすれば、自己肯定を阻害する要因は何なのか、ということを考えるきっかけにもなる。
 あまり時を隔てずして、自己肯定感や生活満足度を考える時間があったので、それぞれ異なる場ではあったのだが、自分のなかで「居心地のよい場所」なるものとは何か、ということを考えることになったわけで。ある種の“逃げ場”にいること、そしてしっかりと休むことの必要性を考えさせられた時間だった。

 直方教会の方々にはお世話になりました。ありがとうございました。




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