書評をいただきました。

立教大学ジェンダーフォーラム『Gem』第26号
 (2012年03月31日発行)

 立教大学ジェンダーフォーラム(ここ)が年2回発行しているニューズレター『Gem(じぇむ)』。書架からの欄に、2006年に刊行された『「レズビアン」という生き方: キリスト教異性愛主義を問う』(新教出版社)の書評を掲載していただきました。評者は、ジェンダーフォーラム事務局の田中杏子さん。
 ニューズレター本文は、サイトに掲載されており、ここ(pdfファイル)から読むことができます。

 2011年11月にイベントに呼んでいただいたこともあるので、きっと取り上げていただいたのだと思う。とても好意的な書評を書いていただいたことに感謝したい。

 本書の全体を通して印象的なのは、差異を抹消したところに築かれる連帯や繋がり、それに少しでも似通ってしまうような関係性への、著者の透徹した懐疑である。一例を挙げれば、「同性愛者差別事件」を問題化した中心人物たちが、長年、教団内で性差別[=女性差別]問題に取り組んできた女性たちだったことを明らかにしつつも、抵抗運動の最中に“女たち”のあいだに生じた「温もり」を描くことに、著者はあくまでも躊躇する。 (書評より)

 この本を書き終えたのは、2005年末。その後、半年余り、原稿は出版社で眠ることになった。あの頃、わたしはそれでも最大限、1998年以降の日本基督教団での「同性愛者差別事件」への抵抗運動のなかの“女たちの連なり”のようなものを、精一杯評価しようとしていたように思う。そして、そのなかでおそらく、迎合しようともしたし、異論をはさむことをあえてしなかったということも少なくはなかった。
 それでもなお、一定の力に引っ張られていくこと、「同じ」だとくくられてしまうことへの違和感は、いまも強烈に、自分の身体のどこかに残っている。差異を差異として認めていく、ということは、案外、簡単なことではない、ということだろう。おたがいに。

 本書において、著者が「レズビアン」という名づけを引き受け、引き受け続けるということは、マジョリティのみならず、時には身近なマイノリティと相対するときも「問う」というスタイルを崩さず、他者とのあいだに存在する差異を具体的に見つめ、そこに留まる思考そのもの ――「生き方」のことでもあるのだろう。こうした峻厳な「生き方」から発せられる問いかけに、読み手としての“わたし”は、〈いま−ここ〉でどのような属性を選択し、引き受け続けている人間として応えていくことができるのだろうかと、深く考えさせる一冊だった。 (書評文より)

 評者の田中さんがこうやって、ひとつの応答を差し向けてくださるとき、また、わたしはあの頃とは、時を隔てて、どのように〈いま−ここ〉で再応答することができるのだろうか。…日常の思考のなかで、その応答の模索は、継続していく。そして、同時に、そろそろ、その後、6年余りを経て思考してきたことをまとめる時期にもあるのではないか、と考えさせられたりもする。もちろん、まとめて出版するほどの地位にもいなければ、財力もないのだけれど。それでもあきらめずにいたい、とは思う。

 どうもありがとうございました。




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