久々の更新です。

更新が途絶えて、早11ヶ月ほど。
多くの方々と同様、SNSTwitterFacebook)ではあれやこれやとアップしているのですが、こちらは放置したままでした。

基本的には相変わらずの日常ではあります。
ただ精神的に大きく変化したのは、昨秋の出来事からでした。
学休期間に訪れた知多半島での研究会合宿の早朝、実家から連絡があり、妹の訃報を聞きました。
あれ以降、心ここにあらず、というか、なにか世界の色が変わってしまった、というか、そんな感じです。

いまのわたしにとって、妹が一人娘を遺してくれたことは、せめてもの救いです。この(やんちゃなティーンエイジャーである)娘の顔を見に、しばしば実家に戻っていますが、かのじょが自分なりの「幸せ」をつかみとって行ってくれることが、目下の願いです。

葬儀のための渡米に際して、キリスト教関係のつながりのなかで、また、セクシュアル・マイノリティに関する活動のつながりのなかで、多くのお励ましとお支えをいただきました。本当に感謝です。
2012年度から大学での非常勤講師の仕事以外にも、イレギュラーに新しい仕事にも就いているのですが、この仕事(二つの職場)をやっていて良かった、とも思えた時間も多くありました。

いまさらではあるのですが、2013年7月にミニコミにスペースをいただいている連載に文章を書きました。
カンパの行先がどうなったのかという問い合わせを、キリスト教関係者の方から受けて、ご報告もできていないことを反省しながらしたためた文章です。
一部、固有名詞を抜いて転載しておきます。

あらためて、お支えくださっている方々にお礼申し上げます。

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関東神学ゼミナール通信『fad』第62号
(2013年07月発行)

感謝とお詫び、そしてご報告 ――〈弔い〉の渦中で
堀江有里

 今回は紙面をお借りして、感謝とお詫び、ご報告を述べさせていただきたいと思います。

 昨年の秋、ロサンゼルスのハリウッドに生活していた妹(享年41歳)が急逝しました。とりあえず、父母の生活する神奈川に赴き、とりあえずの段取りを考えた後、母と弟、親友の息子と四人で渡米することになりました。このような事態のなかで「関東神学ゼミナール」の呼びかけで、KHさんとNTさんが中心になってカンパを集めてくださっていることを知ったのは、しばらく後のことでした。多くの方々にお支えいただいたことを心より感謝しております。ありがとうございました。

 いただいたカンパは、セクシュアル・マイノリティに関するサポート業務に携わる仲間たちからいただいたカンパとあわせて、全額、現地での葬儀費用と渡米のための航空券代金、そして渡米前後の実家への往復交通費として使わせていただきました。関係者のみなさまには、ご挨拶がずいぶんと遅れてしまいましたことをお詫び致します。本来であればお一人おひとりにご連絡すべきところですが、後述のような事情により、感謝とともにご報告させていただきたいと思います。

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 2012年9月16日の早朝、父からの電話を受けたのは、知多半島の南側にある篠島で研究会合宿をしている最中でした。妹が亡くなったという知らせでした。突然の訃報というものはあまり実感の湧かないものです。うまく現実をつかみとれないままに、まずは親友たち三人に電話をしました。日曜朝という教会関係者にとってはとても多忙な時間帯であるにもかかわらず、かけ直してくれた友人たちに支えられた気持ちでした。幸い、研究会合宿のメンバーもとても信頼している三名。事情を話し、合宿を中断してわたしを名古屋駅まで送る、という決断をしてくれました。普段から周囲の人々の支えられて生きているわけですが、このときも一人で訃報を受けずにすんだことを後に振り返って、大きなことであったと感じています。

 わたしたちは、9月20日(木)、ロサンゼルス空港へと降り立ちました。検死局、葬儀社へと出向きました。渡米する前に相談した結果、本人が好きだったロサンゼルスに散骨することにしました。葬儀は、25日(火)にポート・オーコール(Port O’Call)の船上にて、わたしの司式により執り行いました。急であったにもかかわらず、近所の友人たちやケースワーカーを含めて十二名の参列。妹の親しかったミュージシャンによる演奏や歌、熱心なクリスチャン(こんな友人がいたとは驚きでしたが)のメッセージなど、思いがけない“ギフト”が与えられました。沖合では、海を越えて、最後まで妹に寄り添いつづけてくれた、わたしの横浜時代からの親友・YOさんが手配してくれた真っ赤な薔薇の花百本とともに、とても静かな海の底へと遺灰を沈めることとなりました。

 また、友人たちが参列してくれるということでプログラムの英訳については、急遽、SYさんが引き受けてくださることになりました。そして裁判所に提出する書類をASさん(研究者の先輩)が英訳してくださいました。
 このようなたくさんのつながりのなかで支えていただいたことにも本当に感謝しています。

 訃報を聞いた後、渡米して帰国するまで慌ただしかったので振り返ることもままならなかったのですが、帰国後、少しずつ現実が迫ってくるものです。おそらく、妹を失ってしまったという欠落感や、さまざまな思いに寄り添いきれなかった自責の念は、ずっと自分のなかに残りつづけるであろうと思います。シングルマザーとして生活していた妹が遺した一人娘、そして最後まで一緒にいたウサギのアレキサンドラも後に帰国し、いまは実家で祖父母とともに葛藤しながら生活しています。

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 ここ数年間、わたしは活動と研究の一環として、セクシュアル・マイノリティの自己肯定の困難と、これまでに見送ってきた死者(自死や病死など)をめぐって、〈弔い〉という営為について理論的に考えてきました。まさに、その〈弔い〉の渦中に、妹の出来事があったわけです。米国でも日本でも「家族」という枠組の縛りは大きく、今回はその現実を目の当たりにした日々でもありました。それはこれまでの「仲間」たちの死とは異なる側面です。それでもなお、いくつも重なり合った〈弔い〉はわたしのなかで今後も継続して行くのであろうし、いまの活動や研究をつづけていく以上、その〈弔い〉を言葉にして行くことがわたし自身の使命のようなものだとも感じています。

 〈弔い〉という営為自体は、孤独な作業でありつつも、これまで、そしていまも多くの方々に支えていただいているように、まさに人々とのつながりのなかで行っていく作業でもあると痛感しています。
 〈弔い〉について、哲学者の小泉義之は、こんなことを述べています。

「誰かが死ぬ、私は生きている。誰かが死ぬことと、私が生きていることのあいだには、何の関係もない。誰かの死と私の生は、徹底的に断絶している。誰かの死と私の生の断絶を、思い知ることが弔うということである。
 しかしこのような断絶を人はたやすく見失う。おぼろげに見てはいても、それを直視することに人は耐えることができない。というのは、誰かの死と誰かの生が、この世ではいつも関係づけられてしまうからである。ほんとうは断絶しているのに、そこには何らかの関係があると思いなされてしまうからである。そのような思いは〈妄想〉である」(小泉義之、一九九七、『弔いの哲学』河出書房新社)。

 生者と死者のあいだにある断絶を認識することも、関係を〈妄想〉だと断言されてしまうことも、厳しいことではありますが、その現実をしっかりと見据えつつ、生き延びていくことが生者に課せられた出来事なのかもしれません。

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 先日、「堀江さんの渡米のためにカンパしたけれど、ちゃんと届いているの?」とたずねられ、あらためて、お支えくださった方々にきちんとご報告すべきだと思い、このような文章を執筆することにしました。「関東神学ゼミナール」でカンパを集約してくださったKHさんとNTさんは「余計な心配をしないように」と、どなたがカンパを寄せてくださったのかはわたしには伝えないという配慮をしてくださっています。すべての方々には届かないかもしれませんが、みなさんのお支えを感謝しております。ありがとうございました。

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まだまだ困難はつづくとは思いますが、ひとまずのご報告でした。
また折を見つつ、更新できれば、と思っています。

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【付記: 2013年08月05日】

 facebookから連動してこのエントリーを書いてから、複数のレスポンスをメールやDM(facebookおよびtwitter)でいただきました。申し訳ございませんが、お返事できておりませんし、今後もしばらくできないと思います。どうかご了承いただければ幸いです。

 とくにキリスト教関係に関してましては、「カンパのお願いが回っている」という情報を得た時点で、辞退させていただくべきでした。言い訳にすぎませんが、まったく余裕がなく、動けなかったことを心よりお詫びいたします。カンパをいただいてしまったことで、今更ながらですが、大きな「負債」を抱えてしまったことを自覚することとなりました。ただ、この「負債」に関しましては、そもそも「家族」という概念自体を問うことを、わたし自身、常としておりますため、「遺族」というよりは(そもそも妹がいなくなったことに関しては、それ以前の段階より、「血縁」以外のネットワークのなかでの支えがあったので)、わたくし個人として受け止めさせていただくことをご了承ください。

 「報告できる程度には元気になった」ように見えるというご意見もいただきました。おそらく、いちばん近くにいた母や父、姪、親友のやもちゃん、LAの人たちよりも距離はあるのでしょうが、わたし自身もなにがしかの「解離」状況を抱きつつ、この11ヶ月間を歩んできたのだと思います。渡米初日に葬儀屋で棺を見送った光景は、いまだに毎日思い出します。もちろん、写真も整理できていません。それにまつわり、まだ、誰にも語ることのできな出来事がいくつかあります。…京都に生活していたわたしですら、こういう状況であるのであれば、連絡を取り合っていた人々にとっては、おそらく、わたしの想像以上の出来事が、いまもあるのだと思います。このような公開の場にて、表現してしまうことは、なにがしかの記憶を呼び起こすことになるのでしょうし、それを恐れてもいます。

 「遺族」は哀しみの淵にずっと留まっていなければならないのだろうか。…いまはそんな思いを抱いています。少なくとも、わたしは「幸せになってはいけないような気がする」と言っていたという姪の言葉を否定したいと思います。そのために、精一杯、自分自身が日常を過ごしている姿を見せていきたいと思っています。自責感は一生消えることはないと思いますが、それは、わたしにとって、遺された人間の「宿命」だと思うからです。

 今回は、セクシュアル・マイノリティ関連の活動に携わる方々にも、カンパをいただいております。後回しになってしまい、申し訳ございません。こちらの方々に関してはきっと大丈夫だろうと、甘えさせてもらっております。ただ、あらためてではありますが、この仕事や活動に関わることができ、ほんとに良かったと思っています。おそらく、このネットワークがなければ、わたしは〈いま〉までを乗り切ることができなかったと思うからです。昨秋もそうなのですが、ここ数日間も、支えていただいていることに本当に感謝しています。

 いずれにしても、「負債」はおそらくみなさんに納得していただけるかたちで返済できるわけではないのですが、今後、自分なりに考えさせていただきたいと思っています。どうか、時間をください。

 ほんとうは、誰よりも、妹にあやまらなければならないのだとも思っています。不甲斐ない姉で、本当に申し訳ない、と。
 1995年の夏、大き目のODの後、休職中に訪れたロサンゼルスにて、あなたが、「おねえちゃん、プライド持たなきゃダメだよ。こっちの人たちは虹色の旗をシンボルにしてるんだよ」と、ハリウッドのレズビアン&ゲイ・センターに送り出してくれたことを誇りにして、あなたの分まで生きたいと思います。




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