社会運動論

 アラン・トゥレーヌの弟子であるフランソワ・デゥペの社会運動論。
 「行為」から「経験」へ。そして“社会から個人”を“個人から社会”へというベクトルの変更。そしてバラバラにされた個々人の〈生〉のなかでの「社会運動」の可能性。

 諸個人の経験は集合行為の川上に位置する。しかし、さまざまな社会運動において作動し、動員され、運動のもつ意味の一部を形成するのはこのような経験もしくはその諸要素のいくつかである。社会運動が特別な事件であればあるほど、特定の条件と合理性を前提とするがゆえに、それがありふれた経験の諸形態から切断されていると考えるにしても、諸個人が集合行為の中に「もちこむ」経験と社会運動はやはり原則的に連続性をもつ (p.169)。

 個人が結束するなかで積み上げられていくものとしての集合行為ではなく、上流から流れてくる水が合流するなかで生み出される集合行為、というイメージ。そして「特別な事件」としての社会運動。そこに内在する諸個人の〈生〉。

 (…)集合行為の社会学は、以下の二つの中心的な疑問に答えなければならない。まず第一は動員のメカニズムそのものの性質に関する問いである。そして第二の問いは何が動員されているのかを利害・連帯・文化的志向性の観点から把握し、とくにそれらのどのような組み合わせが個人から集合的なものへの移行を可能にするのかを知ることを目的とするものだ  (p.169)。

 デュペは後者に注目する。
 そもそも「集合行為」、つまり、複数の人たちがそれぞれの経験を携えて合流することなしに、社会運動は成立するのだろうか。もしくは、それを社会運動と呼ぶことは妥当なのだろうか。

 社会運動は、行為の諸局面すべてを接続し、ヒエラルキー化する意思によって特徴づけられる。しかし、/たとえこの意思が存在したとしても、社会運動は、行為者によるワーク(作業)の外には存在しない、つまり自律的で統合された一つの行為を構築したいという活動家たちの欲求の外には存在しないといわざるをえないのだ。なぜならこれらの出来事の中では、行為のさまざまな構成要素が、社会的経験に関する述語のように、絶えず互いに分離しているからである (pp.210-211)。

 さまざまな社会運動が力と持続性をもち、歴史的な「登場人物」となるに至るのは、強く統合された社会的経験に支えられる場合だけである。これがもう当てはまらなくなると、社会がばらばらな闘争の場として現れる。そして諸個人が自分の経験を構築しなくてはいけなくなり、それと同時に、さまざまな運動にも相対的に異質な意義同士を絶えず接続しなければならなくなる。社会運動はこのワークそのものの中にだけ、すなわちユートピアや計画なき自律性への要求の中にだけ、存在できる。また「真性さ」への個人的探求も、自己を破壊しないポジティブなイメージに寄りかかることはできない。この意味で、個人のワークと運動のワークは同一のものである (pp.214-215)。

 「事件化」することによって成立する社会運動。それが記憶されていくために必要な統合の経験。二重の困難。


 デュペ、フランソワ、[1994]2011、『経験の社会学』山下雅之監訳、新泉社。




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