「コンフリクト」

 RF「横断するポピュラーカルチャー」に関する総括特集。
 冨山一郎さんによる「コンフリクト」と「横断性」に関する序文。

個人であれ集団であれ、対立関係には、その対立する力を定義するベクトル場とその関数が前提とされている。かかる共通の前提をおくことによってはじめて、コンフリクトという設定は可能になるのだ。そこではコンフリクトを問題にすればするほど、この前提は問われることなく、自然化される傾向も生まれるだろう。そして今問題にしたいのは、この自然化された領域なのである。乱暴にいえば、この関数自体の変容あるいは対立を定義する平面自体の融解という問いを、立てようとしているのである。対立が時間と空間の両方において構造化された建物同士の衝突だとすれば、ここでは土台自体が建物と共に流動化し、土台と建物の区分が不明確になっていくプロセスを問題にしようとしているのである。横断性とは、こうした流動化のプロセスを含意している (p.179)。

 コンフリクトをそこに「在る」ものとしてではなく、それが生成する〈前〉を考察していくこと。そして、コンフリクトが生じるときに表面化する、その「土台」部分を、どのようにとらえていくことが可能なのか、という問い。

 対立構造を秩序と見なした上で、その秩序の崩壊を問題にすることの問いには、崩壊感が満ちている。それはいわば、対立する二者がいる法廷それ自体の圧倒的な崩壊である。そしてかかる崩壊を念頭に置くならば、コンフリクトとは既に秩序の回復と密接にかかわっているともいえるだろう。だからこそ繰り返し述べたように、コンフリクトとは、既存の秩序が前提としていた領域が動き出し、崩壊から動き出す新たなプロセスを、とらえそこなったところに登場する、秩序維持的な認識なのではないだろうか (pp.186-187)。

 対立してる構造自体が、すでに「秩序」であり、それらの「土台」に問いを立てようとすれば、そこに横たわっているのは圧倒的な崩壊感であるということ。崩壊を崩壊としてとらえそこなうときに(もしくは、それを回避/そこから逃避しようとするときに)、コンフリクトは生じる、といえるのだろうか。

「閾(liminality)」。ソルニットは、既存の秩序が形を失い消尽する不確かな領域をこう呼ぶ。この領域においては、何が起きるかわからない。だからこそ、何でも可能なのである。「何が起きるかわからないという災害の警告は、なんでも可能だという革命の教えから、そんなにかけ離れてはいない」のだ。「変わる可能性のある現在(a transformative present)」。(…)非常事態とは、なんとしても解決しなければならない課題でもなければ、一刻も早く秩序を取り戻さなければならない混乱や対立でもないのだ。それは世界が「未決性(openness)」を帯びだす事態であり、そこで求められている知覚は、閾に留まり何が起きるかわからないという不安に耐えながら、これまで問われることのなかった前提に問いを立て続け、そこから垣間見ることのできる未来を予感することではないだろうか。分析ということの真の意義が問われるのは、この未決の未来に対する知覚においてである (p.188)。

 集団性。横断性。社会の未決性(openness)。ソルニットの「閾(liminality)」。そして、これらの概念や思考を、社会運動/差別問題と連結したなかで援用していけるのかどうか、という文脈を超えた課題。


 冨山一郎、2012、「序――特集:コンフリクトと横断性」大阪大学グローバルCOEプログラム・コンフリクトの人文学国際研究教育拠点編『コンフリクトの人文学』第4号、大阪大学出版会。 




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