「弔い」論


 死にゆく人々を見送っていくということ。そして、それが“道半ば”だと認識されるときに残された者たちを覆いつくす喪失感。たとえば、レズビアン自死という事態に直面するとき −―それは「レズビアン」をキーワードに運動に携わってきたなかでは決して少なくはないのだが――、その人自身が置かれたマイノリティ性ゆえ、それが「“自”死」としてだけ認識されてしまうことについての疑問を差し挟む余地もあることを思いながら。

 しばらく、意図せざる結果であったり、ほんのタイミングの誤差みたいなものであったりもしつつ、しかし、結局は〈この世〉から去っていった人々を、活動のなかにどう位置づけるのか、もしくはもっと言ってしまえば、生き残されてしまった者たちは、その契機に何を考え続けていくべきなのか、ということが、ぼんやりとかたちをなさないままに、頭の片隅に引っかかり続けている。

 このようなことを言語化していくひとつのヒントとして、しばらく前に、川村邦光さんの「弔い」論に行き当たった。

 死そのものはいつしか誰にでも等しく訪れる。しかし、いつどのような死を迎えるか、どのように死者/死体が扱われるのか、弔われるかは、実にさまざまだ。というより、地位や身分、暮らし振り、年齢、そして何よりも死に方によって、弔いの作法には大きな違いがある。それには、ミクロな規模であれマクロな規模であれ、生者として死の以前から連続した死や死者/死体の位置する状況での力/権力が働いている。生前から引き継いだ、いわば、“弔いのポリティクス”が、死および死体に作用しているのだ (148頁)。

 死者をどのように認識するか、は、つねに生者の課題である。なぜなら、死者は、もう存在してはいないからだ。

 死者/死体は大なり小なり、(…)評価に晒される文化性・社会性、ひいては政治性を帯びざるをえない。それは生前から引き継がれるものだが、死において一層くっきりと際立たせられることになろう。死は自然的身体には等しく訪れ、死者/死体は多様に表象される文化的身体へと絶えず変容する。それは王や天皇の身体ばかりでなく、ごく一般の生活者の身体にもいえるだろう。死者/死体は朽ち果てていくのが宿命だが、文化的身体はそうではない (149頁)。

 しかし、死者は本当に存在していない、と言えるのだろうか。生者の記憶のなかで、変容し続ける死者の像。それが、ここで「文化的身体」と表現されているところのものなのだろうか。

 死を悲しみ悼む営みである、弔いは死者に対する生者の関わりが続く限り存続する長いプロセスである。死者と生者の間に血縁・地縁がなくとも、生者による何らかの縁が死者と結ばれるなら、弔いが行なわれる。死者は生者によって生かし続けられるのである。逆に言えば、死者に関わる生者がいなくなれば、死者は忘却されることになる。鎮魂や慰霊、供養、法要、顕彰といった生者の身体的な営みによって、死者は生き続ける。また、墓や碑、位牌・仏壇、霊廟、遺影などといった死者を記念する装置によっても、死者は生き続ける。
 こうした弔いの作法によって結晶されていくのが、死者の記憶、面影である。それはまた、日常の生活世界を超えた存在、死者の霊、亡魂へと変容されることもあろう (149頁)。

 弔いは「訪(とぶら)い」を語源として、訪ねる(尋ねる)ことが原義である。弔いとは、その語源からすると、端的に生者による死者への訪れである。(…)弔いの場が構築されることによって、死者もしくは死霊の弔いは更新され、死者や死霊は生き続けていく (150頁)。

 川村さんがその後に展開するのは、死者の存在である。死者とは、生者によって認識されるものであり、そして、その意味では、生者よって「生かされ」続ける存在であるともいえる。そのときに参照されるのが「亡霊・幽霊が出現すること」。

 弔いとは、多かれ少なかれ、生者による死者をめぐる政治であり、弔いの場はいつでも政治化され、抗争の場へと転換していく。亡霊の訪れは、生者によって主導され専横された、弔いのポリティクスに対する異議申し立てだと捉えることができよう。生者による、弔いの欠如、弔いの失敗、弔いの未完を告発し宣告するものである。端的に言えば、歓待されなかったことに尽きよう。死者から亡霊への変容、もしくは変身とは、弔い・歓待を求めて、死者の発する抗争のシグナルとして理解できよう (152頁)。

 亡霊のそれぞれの、“殺し/殺される”関係には大きな位相の相違がある。おそらく、そこに旅の経路を対照してみるなら、亡霊が死者としてどのような苦境にあるのか、そしてどのようい生者と交渉しようとしているのか、歴史的な緊張と関係をもって、特定の個別の事例のなかで、弔いをめぐる文化研究の視野を切り開いていくことができるのではないだろうか。さまよえる亡霊の旅と訪れの実践、その“旅の重さ”、それを生者は亡霊とともに担っていくことが求められていると思われるのだ (156頁)。

 たとえば、レズビアンという名づけを引き受け、そのために自尊感情をもちえずに周囲からの直接的・間接的な存在の否定を言い渡され続けてきた人々が、〈この世〉から去ることを自ら決定し、実行し、そしてそれが実現していくとき。かのじょの存在――生きた時間や空間、そしてそれらを共有した人々との関係性――を想起していくこと。それは「亡霊」として出現しうるきっかけと関連するものなのだろうか。
 また、そのような出来事は、クィア理論でしばしば用いられる「亡霊(ghost)」というメタファーと連関しうるものなのだろうか。つねに起こり続けているレズビアン(たち)の自死という出来事を、クィアな視点でとらえていくことは可能なのだろうか。


 川村邦光、2005、「弔い論へ向けて」『現代思想』第33巻・第9号、148−156頁。




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