書評執筆。

Yu-u22012-07-14



書評: 土肥昭夫著『天皇とキリスト』(新教出版社、2012年)

 『福音と世界』2012年8月号、52-53頁。

 『福音と世界』2012年8月号の特集は「歴史と証し: 日本の歴史神学のこれから」。この特集号に間に合うようにとの依頼を受け、恩師の著書の書評をおおせつかることとなった。
 土肥昭夫さんが亡くなって、四年余り。本書は、生前の土肥さんが、キリスト教天皇制に関して執筆された論考がまとめて読めるものになっている。亡くなったのが年度末。そして新年度より、戦後天皇制についての研究をあらたに開始されようとしていたということが、本書の編集を担当された、お連れ合い・土肥淳子さんの「あとがき」に記されている。残念ながら、読むことができなかったことがとにかく悔やまれる。

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 今回、読み直してみて、考えさせられたことは、自分の〈いま−ここ〉が、歴史のどのような出来事の延長線上に位置しているのかを問うことの重要性だった。あらためて思うのだが、キリスト教という枠組に関わって生きていくこと――わたしの場合、今年度は「休務」中であり、いずれ戻るのかどうかもわからない状態ではありつつも――は、とくにプロテスタント教会にいる以上、近代の国家体制が形成されていったことや、戦争協力の道筋とは無縁ではいられない、ということだ。
 「信仰/信教」の自由を掲げ、抵抗していった人々や、その結果、弾圧を受けて殺されていった人々も少なくはない。しかし、それをもってして、「キリスト教の抵抗の歴史」を強調することの弊害もある。やはり、生き残った者/生き延びた群れのほうが圧倒的に多数なわけで、そこには様々なかたちでの体制への迎合が含みこまれているし、〈いま−ここ〉に生きている人間にとっては、その「負」の歴史から出発するしか、方法はないと思う。

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 とは言え、歴史神学という分野にわたしは身を置いてはいない。いまだに「土肥門下生」と自称できるほどのスピリッツ(!)のみは継承しているつもりではいるのだが、いかんせん、そもそも歴史をやっているわけではないので、歴史神学研究者と名乗るほど、さすがに図々しい人間でもない。
 そんな人間が、なぜ、今回の書評を執筆することになったかというと、なんともまあ、“時代”を感じることではあるのだが、ツイッター、だ。ある日、「恩師から本が届いた」なんてこと(土肥淳子さんから届けていただいたご本に「謹呈 著者」という帯が入っていたのだが)をきっかけに、また何度も繰り返してきた思い出をつぶやいていたのだが。そこで、編集者の方が拾ってくださったかたち。

 そして、わたしは相変わらず、「土肥門下生」として、何をなすべきか、応答することは可能か、なんてことを考え始めている。せいぜい、深みに触れられるような研究を進めていきたいものだ、と思いつつ。




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